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「表現の自由」とは、沿革的(歴史的)には、元来(オリジナルとしては)、(i)政治的思想につき(ii)言論や出版を(iii)発信する自由、のことを意味していました。つまり、時の権力者(政権)を批判する自由という性格が前面に押し出されていたわけです。

(iii)発信する自由が、「受領する自由」に変貌を遂げて、併せて、「知る権利」として「表現の自由」として保障されるようになり、さらに、「知る権利」から「報道の自由」等の様々な権利が演繹されるようになったことは、part1で述べたとおりです。

今回は、シリーズの「表現の自由」と「知る権利」からは離れてしまいますが(ですから<番外編>としました)、オリジナルの上記の「表現の自由」が時代を重ねてどのように拡大してバリエーションを有するようになったのかを述べてみましょう。

媒体の問題として、「(ii)言論や出版」に限定されず、すべての表現媒体や内容に及ぶようになり、ラジオ、テレビはもちろん、絵画、写真、映画、音楽、芝居、そして、当然のことながら、インターネットによる表現も保障されています。

方法の問題として、「(iii)発信する自由」については、電波メディアによる報道の自由をとくに「放送の自由」といいます(ラジオやテレビが典型です)。従来、放送用電波は有限で、放送に利用できるチャンネル数には限度があり、このような有限な電波資源を混信を防止しつつ有効適切に利用するためという目的で、放送法により免許制の規制が取られ、通常の「表現の自由」よりも強度な番組規制が正当化されてきました。しかし、近時の衛星放送やCATVの普及による多チャンネル化が状況を変化させるかもしれません。


「(i)政治的思想につき」については、政治的思想に限定されず、あらゆる「表現」の自由が認められるようになりましたが、その中でも、問題となる「表現」の自由があります。代表的に問題になるのは、Ⅰ.性表現、Ⅱ.名誉棄損的表現、Ⅲ.営利的表現の各自由が、通常の「表現の自由」(憲法21条)と異なり、どのような制約を受けるかです。

Ⅰ.性表現
 これは刑法におけるわいせつ物陳列罪(刑法175条)などで問題になります。ここでの「わいせつ」とは何かというと、最高裁は著名なチャタレイ事件(最大判昭和32.3.13刑集11.3.997)において、①徒に性欲を興奮または刺激せしめ、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義概念に反するもの、と定義したうえ、刑法175条は性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持するという公共の福祉のための制限であり合憲である、と判示しました。解りにくいでしょうが、要は、①裁判官が興奮する、②世間一般の人も興奮する、③性道徳に反するものは、取り締まってもかまわないということです。しかし、わいせつ物の規制は未成年者と見たくない人の目に触れないようにすれば足りるという議論も有力です。

Ⅱ.名誉棄損的表現
名誉棄損とは、「公然と事実を摘示し人の名誉を棄損すること」をいいます。「公然」というからにはおおっぴらであることが必要で(もしくは多数人に伝わっていくこと)、「事実」というには、単に、バカとかアホとかいうことでは足りません(侮辱罪の問題になります)。名誉棄損で、よく勘違いをされているのは、「真実を言ったんだからいいだろ?」というものです。名誉棄損罪は真実を言ってもそれで人の名誉(「名誉感情」ではなく「社会的評価」と解されています)が棄損(低下)すれば成立するのです(逆に刑法233条の信用棄損罪は真実である場合は罪になりません)。この限度で名誉棄損的な表現の自由は制約を受けるのです。しかし、一定の場合には名誉棄損的表現も許されており、それを調整する条項が刑法230条の2です。同条1項で、かかる名誉棄損が、①公共の利害に係り、②その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、③事実が真実と証明されたときは、これを罰しない、と定めています。さらに、同条2項で公訴を提起されていない犯罪行為の場合には①は充たすとみなされ、さらに、同条3項で、公職の候補者の場合には、②も充たされるのもとして、表現の自由に重きを戻しています。

Ⅲ.営利的表現
 営利目的、すなわち、コマーシャリズムに基づく表現が典型で、「経済的自由」(憲法22条)の側面を有しているため、通常の「表現の自由」(憲法21条)よりも若干低い保障を受ける=より制約を受けるものとされています。


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